2013年5月28日火曜日

音楽愛好家の目から見た「珈琲」の味わい

コーヒーを飲んで美味しいと思う子どもは少ない。コーヒーや茶が「経験的味覚」と呼ばれる所以だ。

その「経験的」なるものの中核を成すのが、お馴染みの「カフェイン」という物質が作り出す風味だ。
カフェインというのは、誤解を恐れずに言えばコーヒーや茶の樹木が自らの身を害虫から守るためにまとった「毒」なのだ。

彼ら(コーヒーや茶)は、この毒をその身に持つために樹木としては非常に短命で、数年の寿命しかない。
そのかわり虫の脅威に晒されずに群生して勢力を伸ばしていく。そういう生存戦略を選んだ種族だ。

我々人類は、虫なんかよりはずっと耐性が強いので、このカフェインは「毒」としては作用せず、神経系に程よい「緊張」をもたらしてくれる。
イスラム教の公式飲料だったコーヒーがキリスト教でも認められて(本当に教皇に洗礼を受けたのだ)以降、昼間からワインやウィスキーばかり飲んでいて半分眠っていたヨーロッパ社会は、文字どおり「覚醒」したのである。

しかし、神経に緊張をもたらす程度とは言え、毒は毒。味覚中枢はこれを恐る恐る味わう。だからコーヒーの味は何度も経験を重ねて初めて味覚中枢の奥底まで届くのだ。


音楽に対する審美性もこれに良く似たところがある。

音は、空気の振動だ。
どんな音も正弦波と呼ばれる「波」が変調して音を構成している。
この波の特定の組み合わせで共鳴という現象が起こって、新しい音波が生まれる。
こうして音楽の美しい響きというものが作られているのだ。

西洋音楽の基礎は9世紀ごろに成立したグレゴリオ聖歌にある。
メロディーだけで出来ていて響くようなところはない。
後にオルガヌムと言われる即興で、多くは5度(ドに対するソ)の和声を重ねる技法が出てくる。
5度の和声は最も響きやすい波の関係で和音の最も基本的な構造だ。

オルガヌムの時代にも時に3度(ドに対するミ)の和声が使われることがあったが、これは5度に較べると奇麗なだけの響きではない、当時の人々にはちょっとした違和感を感じさせる響きがあった。
しかしだからこそ、この音には魔術的な魅力があり、すぐに基本的な和声音として取り入れられる。
和声的には重要な音で、この3度の音を半音下げると短調の和音になる。


バッハはこの理屈を鍵盤楽器で出せる12の音に当て嵌めて、12音それぞれの長調と短調の24の調性を使った24のピアノ曲を作った。
平均律クラヴィーアというピアノ曲のバイブルがそれだ。
18世紀中盤のことなので、3度の和音がもたらす緊張を経験的に審美できるようになるまでに700年近くかかっていることになるだろうか。

そして18世紀後半に登場するベートーヴェンによって、音楽の緊張を審美するムーブメントは急速に加速される。

なにしろ交響曲第一番の第一音が、下属調の属七の和音で、今で言うサブドミナント・セブンスという緊張感の高い和音だ。第一交響曲の第一音から、当時の不協和音の中でぎりぎり使用を許されていた音を使うというのがベートーヴェンらしい。
さらに有名な「熱情」というピアノソナタでは、これまたぎりぎりの不協和音、属九の和音を3楽章の冒頭に使っている。

どちらの和音も現代の音楽では何の違和感もなく使われる普通の和音だが、これも革命者ベートーヴェンあってのことと言えるかも知れない。

そして、現代の音楽ではこれらの属九、属七の半音上、下、そして11度、13度といった和音を駆使して、聴くものに様々な味わいを持つ緊張感を与えようと腐心しているというわけだ。

ワーグナーの有名な「トリスタンとイゾルデ」というオペラの序曲に至っては、最初から理論的に説明不能であるがゆえに「トリスタン和音」と呼ばれている奇怪な響きから始まって、とうとう楽曲の最後の最後に一回だけ主和音が登場するという破天荒ぶりだ。

しかし、それでもやはり最後には主和音が登場するというのが、音楽という芸術だ。
様々な響きや和声の進行を使って、主和音に辿り着きたいという心情的な緊張を作り出すのが作曲の技法の主体なのである。


こうしてみると人間というものは、どうしようもなく生きていくということの中に、変化とかアクセントとか、シンプルに言えば「楽しみ」というようなものを求める存在なのだと思う。


自分が作っているコーヒーという飲料も、きっとそのひとつ。
神経系に適度な緊張をもたらすコーヒーを作るための適切な苦味を引き出せる焙煎ポイントは一点しかなく、作り手側としての自分は、その一点を逃さないための緊張を、また楽しんで生きていこうと思う。
どうかよろしく。

(旧Cafe GIGLIO Blogから転載)

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