2013年6月4日火曜日

珈琲は黒いダイヤなんかじゃない

コーヒーの原産地であるエチオピア・イエメンの豆を「モカ」という。
これは豆の積出港だったイエメンのモカ港に由来する。
海外で人気があった有田焼が、積み出された港が伊万里だったため「Imari=伊万里」と呼ばれる式のあれだ。

コーヒーが飲料として世に出てきた17世紀当時、アラビア半島はイギリス帝国の支配下にあり、モカ・コーヒーの貿易権は当然イギリスが独占していて、かなり高額の関税をかけていた。
その当時はまだ、エチオピア近辺の東アフリカとイエメンでしかコーヒーは栽培できなかったのだ。

ヨーロッパ列強も自らの植民地でコーヒー栽培を試みるが、なかなかうまくいかない。
最初に成功を収めたのはオランダがセイロンやジャワ島に苗木を持ち込んで栽培したものだ。

オランダ東インド会社は、この東南アジアのコーヒー豆を収穫後すべてをモカ港に一度集積して、その時のエチオピア豆よりもいくぶんか安い値を付けて勝負に出た。
いいかげんイギリスの独善的な関税政策にアタマに来ていた市場は、この安価なオランダの豆を歓迎し、ヨーロッパ全域を席巻することになる。

商売にならなくなったイギリスはモカ・コーヒーに高い関税をかけるのをあきらめ、あらたな儲け口として中国からの「茶」の輸入に力を入れるようになり、紅茶の王国イギリスへの道を歩み始める、という訳だ。


その後ジャワ・コーヒーは隆盛を極め、現在もプログラミング言語の「Java」(もちろんジャワのことです)のアイコンにコーヒー豆が図案化されているくらいだ。
しかし、好事魔多し。

残念ながらセイロンはコーヒーさび病という天敵で全滅、ジャワも大きな被害を受け、両産地とも茶の栽培に舵を切っていくことになる。



中国茶の輸入に乗り出した英国は、コーヒーにおけるオランダの成功を真似しようと、なんとか自分の植民地のインドあたりで茶の栽培ができないかと試行錯誤をはじめた。
しかし、中国茶はインドの気候では栽培ができない。

そんなある日、英国東インド会社の少佐(この役職名からわかるように、東インド会社は植民地の治安維持軍の役割を担っていた)がインドの山奥で自生している新種の茶の木を発見!
これをインドで栽培して、英国の覇権は再び確固たるものとなっていく。
当時ヨーロッパは王宮を中心に中国風の生活をすること(シノワズリーといいます)が流行していて、茶は上流階級の必需品だったのだ。

後は歴史の繰り返し。
茶の関税はまた上がり、反発したアメリカ大陸の植民地で「ボストン茶会事件」が起こり、アメリカの独立へと繋がっていった。


そして時代は変わり、グローバリゼーションが進んだこの世界でも同じように歴史は繰り返されているように見える。
しかし、現代のありようを見ていると、帝国主義の時代のほうが正々堂々としているように思えてならない。
少なくともあの時代、国の未来を託すべき作物は、自らの力で発見しようと努力されてきたし、植民地化という方法は必ずしもフェアとはいえないが、自国の領土として統治はしているわけだ。

翻って現代をみると、アメリカやEUは国内の農業に国家として豊富な補助金を拠出し、かつての植民地がいくら良い生産品を作っても価格競争力を持てないようにしている。
しかたなく、国際的な巨大資本に言い値で売るためどんどん価格は下がっていく。

このどこまでいっても開発途上国に不利な枠組みを是正するため、ウルグアイ・ラウンドで農業補助金の撤廃が採択されたが、先進国組は(と言うより、食品コングロマリットが)これを不服とし、2003年メキシコのWTO閣僚会議で、まったく逆の方向に議論の舵を切っていく。

この大規模な国際会議に、アフリカでは代表団を三名しか送れない小国もある中、EUは650名の大規模な代表団を組んで会議に乗り込み、たくさんの分科会を同時に走らせて、充分な対話を行わないまま、会議を押し切ろうとした。
アフリカ勢はこれに反発。
対話は暗礁に乗り上げたまま、現在も搾取は続いている。

机の上で計算されたり、会議室で繰り広げられる深謀遠慮から生まれる抽象的な勝利や成功はもういい。
コーヒーはコーヒーであって、黒いダイヤではないのだ。

品質の高いコーヒー豆を生産して、技を尽くして焙煎して、丁寧に抽出する。
そうしてできた一杯のコーヒーへの称賛や正当な報酬が当たり前に得られる世界を、半ばあきらめながら、それでも心の何処かに希望を抱いて、僕は今日もこのコーヒーを丁寧に丁寧に一杯ずつ淹れるのだ。



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