2014年2月28日金曜日

リテラシーの意味

時事問題を扱うテレビを見なくなって久しい。
ニュース情報の摂取をインターネットに依存する生活をしていると、時々個人のブログがソースになった「オススメ」情報が流れ込んでくる。

先日は、「下から7割の人のための理科&算数教育」という、中学生の娘を持つ身として非常に興味深いタイトルの記事を読んだ。


筆者は私と同じ文系体質らしく、中学で今使われている教科書を読んだ上で、このような教育は自分たちのような文系人種には将来にわたって何の役にも立たないと断定している。
そして、このようなことを実際には教えるべきなのだと言っている。
長いが以下に引用する。

たとえば、算数の時間には、
・リボ払いを選んだ場合の利子の額
・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ
とかを(台形の面積の計算方法や、ルート2=?とかを暗記させる代わりに)教えてほしいし、

生物の時間には、
・命にかかわる病気になった時、治療方法をどう選べばよいのか
・妊娠のメカニズムと、不妊治療やその限界など
・副作用も指摘されてるワクチンを勧められたんだけど、摂取すべきかどうか、どう考えて決めればいいのか?
・太っちゃって、脂肪吸引に興味があるんだけど、大丈夫かな?
みたいなことを(カエルの解剖をする代わりに)教えてほしい。

化学の時間には、
・トイレ掃除のとき、何と何の洗剤を一緒に使うと危ないのか (もしくは、ガスファンヒーターの前にヘアスプレーのカンがあったら、どれほど危ないのか)
・ホテルで火事にあったら、煙は上下、どっちに流れるのか
・天ぷら油から火がでたら、水をかけるのとマヨネーズをかけるのはどっちがいいのか。なければケチャップでもいいのか?
などを(リトマス紙で遊ぶ時間の代わりに)教えてください。

物理の時間には、
・イオンのでる家電って、なんか意味あるの?
・放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?
とかね。

それ以外でも、
暑いからといって赤ちゃんに扇風機をむけて一晩過ごしたらどーなるか、夏の自動車のなかに「ちょっとだけ」放置したらどーなるか、とかも、科学的な知識の問題な気がします。

筆者が挙げているほぼすべての項目が、現在の中学と一部高校レヴェルの理数教育を受けていなければ原理が理解できないものであることはすぐにわかるだろう。
つまり、筆者は原理はすっ飛ばして結果だけ教えてよ、と言っているように見える。

しかし、そう言いながら、
換言すれば、「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」だってことです。
とも言っている。
前者の事例は、当然リテラシーの事例ではない。元来「読み書き」の事を指すリテラシーという言葉は広義の意味での「基礎教育」を指している。だから前者の事例が後者の実現になっていないのは明らかである。

好意的に読んで、筆者の真意が後者の中等教育でのリテラシー教育特化論を「趣旨」とするものだったとして、筆者が中学の教科書を読んで、これは「技術者や研究者になるための専門教育」であると断じたとすると、まことに残念なことである。
実際の中学の理科や数学は、これ以上の基礎に分解できないジャスト・リテラシーなカリキュラムになっているからである。
だから逆に例示しようとすると筆者がやったように現実への応用例になってしまうということなのだ。

「換言すれば」筆者の記事は、このような実例を例示できるほどの知識をご自身が現在身につけておられることを示していて、日本の理科系基礎教育のまことに見事な成功事例を体現しておられるとも言える。

もちろん実際の知識は社会にでてからGoogle先生などに師事なされて体得されたのだと思う。それだって基礎がなければ出来ない話なのだ。

さらに「換言すれば」一度社会に出た身で見た中学の教科書が如何に実社会に役に立たないシロモノに見えても、それがなければやはり実社会で役に立つ知識を個人の中に醸成することはできないのである。

誤解してもらっては困るので、念のため申し添えておくが、僕は筆者がこの記事で主張している「趣旨」の部分に基本的に賛成している。
ただ、
技術そのものというより、技術や科学について、学んでおきたかったと思えることはたくさんあるんです。
ところが今の理科や数学で教えられている内容は、ほとんどの人には生涯を通じて無関係です。
という部分に強い違和感を覚えるまでだ。

僕は小学校の時、担任の先生が仰った「もし君たちがここで漢字を覚える方法を訓練しなかったら、将来とても面白い小説に出会った時に、感動できないだろう?それが勉強するということの意味なんだよ」と言う言葉を、僕は今でも大事に胸に抱いている。どんな時でも。
会社に入った時、当時流行っていたMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)の考え方は、予備校で習った被子植物の分類の方法と基本的に同じだとわかってすぐに理解できた。

社会生活は絶え間ない問題解決の連なりだ。
援用した理論は、どれほど無意識化に沈んでいても過去に学校で経験した「問題解決」と重なっているだろう。
学問領域のどの部分であっても、それが僕達の生涯に無関係だと、一体誰に言い切れるというのだろうか。

もちろん全員が全部のリテラシー教育をその身に修めているなどと申し上げるつもりはない。しかし、その「ばらつき」が個性として顕現して、我々のコミュニケーションや社会そのものをも豊かなものにしているのではないか、と僕は思っている。

ましてや社会がわれわれに要求する「知」は時代によって大きく変わってしまう。
先日読んだ小林秀雄と湯川博士の対談には、現代は「科学の時代」だと書いてあった。
50年も前の対談である。

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湯川博士の危惧は不幸にも的中し、我々は原子力発電所の事故で、自分たちの生活者としての科学的リテラシーがまったく不十分であることを露呈したばかりだ。

我々に必要なのは「学び続ける力」なんだと思う。
新しいものに出会った時に、それを面白いと思って噛み砕いていく力だ。
だからやはり、その基礎訓練になるリテラシー教育を決して疎かにはできない、という筆者の趣旨に全面的に賛成である。


2014年2月25日火曜日

あらためて考える「広報」のこと

世の中にはプロブロガーと自称する人たちがいる。
日常生活のログをウェブに記録するための日記サービスであるブログを、広告掲載のためのメディアに見立てて、収益を上げている人たちのことだ。

その中の一人が書いた記事にこんなことが書いてあった。

特に大きな企業だと、インタビューをする際に「広報確認」が必須だったりするんですよね。「インタビューするのはいいですが、まずはできあがった原稿を見せてください。あと画像素材もすべて。広報に確認します」的な。これがライターとしては非常にだるい。先方に何の悪気はなくても、げんなりします。(略)どんだけ警戒しているんですか…と。冷静に考えると、それはインタビューを受ける社員に対しても失礼なわけです。要するに「こいつはまずいことを喋ってしまうかもしれないから、一応広報でも確認しておくか」ということですから。


かなりのPVを稼ぐ人気ブログの筆者らしいので、文筆に自信がありライター稼業もはじめたのだろう。
自分の好きなことを書けばいいブログと違って、依頼主のいる文章は依頼者の意向に沿っていることが求められるため、そこに苛立っているようだ。


僕は、このカフェを開く前、専門学校の募集広報を作っていたから、お客様である専門学校と、どのような広報誌面にするかずいぶん議論をしてきた。
出来上がった原稿を、お客様にお見せすると必ず直しが入る。
確かにやっかいな仕儀だ。

だが内実というものが簡単に理解できるものでない以上、この手順を省いてしまうわけにはいかない。


またこの自称プロブロガー氏は、このようにも言っている

「もっと自社のことを知ってもらいたい」という前提があるのなら、「広報確認」という作業は時代遅れきわまりないです。人件費の無駄です。広報が人力で確認している暇があるなら、信頼できるライター、ブロガーを見つけてバンバン好き勝手個人名で書いてもらった方が成果出ますよ。


世の中の「仕事」というものが、このような薄っぺらい価値観で測られているのだとしたら、未来はそうとうに暗い。
そして、このような浅薄さは、確かに社会に蔓延しているように見える。

仕事における浅薄さは、その仕事を為した人が同時に消費者でもあるわけで、当然生活にも忍びこむことになる。

こうして、味のわからない消費者がブランドネームだけで食べるものを選び、どうせ味がわからないのだからと偽物を提供するゲームが成立するようになる。
偽物なら価格は安くできる。
そうした「企業努力」を評価して、価格の安い方に人は集まる。
そのようにして、ものの値段は際限なく下がっていく。

本当に美味しいものを提供したいと考えている人は、そのようなルールのゲームに乗る訳にはいかない。だからなるべく、その姿を世間から隠していく傾向になるはずだ。

姿を隠しながら、食品の真価を知る人たちを顧客にするための「広報」こそが奥深い。
そのために「どんな人に来てほしくないのか」を先鋭化する必要があるからだ。
だからここで言っている「広報」とはまさに経営そのものなのであって、どこかのプロブロガーに委託できるようなものではない、と知るべきだ。


今回の記事には、取り上げたブロガー氏の名前も記事へのリンクも貼らない。
彼はどうやら、このように人が大切にしているものを、軽薄さを装って踏みにじる記事を書いては、反論を集め、その反論に貼られたリンクをも使って大量のPVを稼ぐ「炎上屋さん」らしい。
自分への非難の声を集めたPVで生活をするという美意識が僕にはどうしても理解できないが、まあ、今回は僕も見事に釣られたわけで、せめてリンクを貼らないことでささやかな抵抗をしてみた次第だ。


2014年2月17日月曜日

それぞれの道、それぞれの技

珈琲修行のスタートに選んだ珈琲サイフォン社の河野珈琲塾で、社長の河野さんが珈琲を淹れている姿を見た時、これが本物だ!と確信した。

オープンカウンターでマスターが珈琲を淹れているのは、よく目にする。
パリっとした白いシャツに黒いエプロン。
手慣れた様子でポットを操って、珈琲を落としていく。
実にスマートでかっこいい。

ところが河野さんの珈琲ドリップというのは、そういうものとは次元の違う気迫のようなものが体から放出されている。
なにしろ一滴ずつ湯を注いでいくのだ。
しかも正確に中心に落として、すべての円周部に同時に湯が到達するように落としていく。
あまりにも美しいその抽出のスタイルに目を奪われ、どうしてもこれをやってみたいと思った。

もう7年もこの仕事をしているが、未だに100%の成功率とはいかない。
難しいのだ。

それでも僕は、このまだ未熟な抽出スタイルをお客様に見てもらいながら珈琲を抽出する店舗デザインを選んだ。

写真はお友達のウッチーさんに撮っていただきました。
いつもありがとうございます。

ひたむきに珈琲に向き合うことを要求されるこの抽出スタイルが好きだ。
やはり珈琲には、どこか求道的なところがある。
高校まで剣道部に所属して、朝から晩までそれ一色だった頃を思い出す。

たいして強くはなれなかった。
強くなかったから、どうすれば勝てるか一生懸命考えた。

大声で気合いを叫べば、相手の精神を凌駕できるという考え方には、納得がいかなかった。
でもどうすればいいかはわからなくて、宮本武蔵の五輪書を誰かが解説している本を読んだ。

剣道の理想は一撃必殺だ。誰よりも早く打突を相手に叩き込めれば勝てる。
相手より後に動き始めて、先に打突が到達するように動ければ必ず勝てる。
先に動いた相手には必ず隙があるからだ。
これを「後の先」という。

しかし、普通そんなことはできない。
誰もが自分にできる精一杯の修練を積んでくるのだ。

そこで、人は「技」というものを考えるのだ。

なるほど、と思った。
誰もが、理想へ赴く道の途中にいる。
それこそが「道」と呼ばれる所以なのだ。

そして、その道を乗り越えていくための、人それぞれの「技」がある。
だから人生は面白い。

僕も僕の珈琲道を、技を磨きながら歩いていこうと思う。

2014年2月12日水曜日

バレンタインと、チョコレートと、ブランドと。

バレンタインデーが近い。

思えばバレンタインのチョコレートにはほとんど縁のない人生であった。
しかし、こんな僕にも忘れられないチョコレートの思い出がひとつあるのだ。


小学校五年生の時だった。
バレンタインデーのその日、いつもの通り僕はひとつのチョコレートも貰わずに帰宅した。
もはや慣れっこになった軽い失望感とともに部屋でラジオを聴いていると、チャイムが鳴って、母が、ニヤニヤしながら僕を呼びに来て言った。
「女の子が来てるわよ」

何が起きているのかわからないまま、玄関に向かうとそこにはクラスメートの中でも一番可愛い(と僕が思っていた)子が立っていた。
戸惑っている僕に、彼女は小さな袋に入った、ハート型のチョコレートをくれた。
「あの、これ」
「ありがとう」
「じゃあね」
くらいの会話だったと思う。

今思えば、家に送っていくくらいのことをすればいいのに、そんなことも思いつかなかった。
僕はじわじわと実感される、世界が反転していくような幸福感に、完全に自分を見失っていたのだ。

その後のことはここには書かない。
でももし、あの日彼女が僕にチョコレートをくれなかったら、今の自分はここにいる自分とは違う存在になっていたことだけは確かなことだと思う。


もはや現代のバレンタインデーがそのような、一世一代の想いを伝えるイベントでないことは承知している。
チョコレート屋の側も、消費者の物分かりの良さに乗じて、もともと販促イベントであったそれを、よりあからさまに販促色を強いものへとシフトしていった。

ありがたいことに私達のカフェにも、たくさんのお客様がバレンタイン用のチョコレートを買い求めにいらっしゃる。
今年も早い時期からお客様がいらっしゃるが、皆さん今年のデパートのチョコレート売り場はすごいよ、とおっしゃる。
本場の有名ショコラティエがイベントのために来日し、痩せたとはいえまだまだ世界有数のマーケット日本を盛り上げてくれているのだそうだ。

じゃあ今年は勉強のために覗いてみようか、と出かけた。
確かに盛況で、チョコレートはどれも芸術品のように美しかった。
噂には聞いていたが、価格も芸術的だった。


現代のチョコレートとはこういうものか、といくつか買い求め食べてみた。
当たり前の話で恐縮だが、それは小学生の時、恥ずかしさを押し切って家まで来て彼女が渡してくれたチョコレートのような感動を与えてはくれなかった。

そして価格のことを考えるとき、どうしてもあの豪華な箱たちにどのくらいのコストがかかっているのかをつい計算せずにはいられなかった。
この店を出す時に、包材はずいぶん検討したので、オリジナルの箱を作るのにどれほど膨大で法外なコストがかかるのかはよく知っている。
しかもこんな凝った構造の箱であればなおさらだ。

チョコレートは、他の菓子類に較べてどうしても原価が高くなる。
中途半端に高くて、外見もぱっとしない商品を売るのは実に難しいものだ。
外見にも手をかけて、見栄えを良くして、その結果高価になってしまったものならば、売り方がある。
現代社会ではそういう技術はずいぶん進んでいるのだ。

でも僕は、そういう売り方はしたくない。
この店のものなら間違いなく美味しい、という日常的な繋がりの中で作ってきた信頼があれば、そのような小細工はいらないのだ。
箱なら規格品がある。
きちんと原価を計算して、商品の価格を決め、店頭に出す。
それだけでいい。

ブランド、という言葉がある。
デパートに並んでいる名だたるショコラティエのブランドの数々に較べて我々はあまりにも無名だ。

ブランドは、イギリスで牛に押していた焼き印(Burned)に由来する。
あそこの牛なら大丈夫だ、という印のことである。
そういう本質的な意味でのブランドを、僕らはゆっくりゆっくり作ってきたつもりだ。


おかげさまで今年の主力に据えた「生チョコ」は大好評で、すでに生産が追いつかず、バレンタインデーを前にして、すでに品薄である。
ありがたいことです。

2014年2月4日火曜日

「ある精肉店のはなし」に思うこと

朝、新聞を読んでいたら、牛の屠殺から解体、販売までを一手に行う精肉店の映画を札幌で上映する、とコラムに書いてあった。

せめて映画のタイトルくらいは書いて欲しかったが、ネットで調べるとすぐわかった。
「ある精肉店のはなし」という映画で、今日から「蠍座」というちょっとかわった名前の映画館で上映が始まると書いてあった。

これはぜひ観たいが、時間がままならぬ自営業者のこと、上映時間を調べようと思ったらこの蠍座にはホームページがない!
しかたなくまた新聞に戻って調べたら、昼間にしかやっていない。

むむ。
やむなく断念し、DVD化を願うことにする。


ここまでしてこの映画に関心を持ったのにはわけがある。

僕らがやっているカフェジリオという店では、余市の滝下農園さんの卵を使わせていただいている。
気さくなご主人の人柄に触れたくて、一年に一度はご挨拶に伺う。

自然な状態で飼われた鶏たち。
自家製の野菜だけで育てられている。
大きな葉を持つ野菜が好物で、小屋に置くと瞬く間に無くなる。

大事に育てているのだ。
でも、うちの鶏の唐揚げ美味しいよ、と言う。
そしてこのセリフ、不思議なほど違和感がないのだ。
これって何なんだろう。

よくこの手の映画のアオリに使われる、「いのちをいただく」みたいな、むりやり言葉を当ててる感じや、「生きることは殺すこと」みたいなレトリカルな気取りはそこにはなかった。
この不思議な「自然さ」がどこからくるのか、もしかしたらこの映画にヒントがあるかもしれないと思ったのだ。


先日、米駐日大使が太地町のイルカ漁の非人道性を懸念しているとつぶやいた。

我が国の伝統と文化なのだよと反論したり、アメリカもバッファロー絶滅させたじゃないかと言ってみたりするのはなんか不毛だと思った。

また国内でも、このような漁のやり方は、漁ではなく虐待であるとして大使の意見に賛意を示す人もいる。
でも漁のような行為に虐待という言葉を持ち出すことにも、なんとなく違和感を覚える。


そうこうしていると、今度は中国で漢方薬を作るために飼育されているヒグマから、生きたまま胆汁を抜き取るのが動物虐待で、ぜひやめてもらうように習近平主席に陳情するから署名運動に協力してほしいと連絡があった。
やはりイルカ漁の件と同じように、虐待という言葉が文脈にフィットしていない気がした。

アメリカ人も日本人も見慣れないものに触れて過剰反応しているのではないか、などという気はない。
また、熊の胆汁を取り出すことに反対の人は、イルカ漁にも反対だろうと思うから、別段ふたつのエピソードは矛盾したものではない。

しかし、このふたつの案件が前後して起こったことには偶然を超えた何かを感じる。
この連想が適切かどうかはわからないが、アニメーション作品でありながら、近年論壇で広く引用されるようになった「魔法少女まどか☆マギカ」で、中盤のハイライトである美樹さやかの死に打ちのめされ、元凶であるキュウべえを責める鹿目まどかに「家畜を飼うことに残虐性を感じない君たちが魔法少女の扱いを非道いというのは全く理解できない」と、宇宙生命体であるインキュベーターが言っていたことが思い出された。
なるほど、脚本家虚淵玄は、このセリフのために、感情を持たない第三者インキュベーターを用意したのだな。


しかし我々としては、鹿目まどかの言い分に共感しないわけにはいかない。
その理由は脳の構造そのものにもある。
我々哺乳類の脳には「ミラー・ニューロン」という特殊な神経組織がビルト・インされている。

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例えば虐待されている猿など見れば、その視覚情報からわれわれ自身も同じ部位を痛めた時に発火する神経組織が発火するという仕組みになっている。
脳の深いところに仕組まれたシンパシーの仕組みが僕らの思考を縛っているのだ。
網の中で血を流すイルカたち。
拘束衣を着せられ胆汁を採られる熊。
絞められた鶏に、解体される牛。
彼らの死の姿は、僕等の脳に強い物理的な衝撃を与えるのだ。

だからこの種の問題を、純粋に論理的な言葉というツールで議論することにはちょっと無理があるのではないか、と僕は思っている。

となれば完全に公平な立場なんてものはありようがない。
ない以上、様々な立場からの意見を伺って、それら全部を飲み込んでただ生きていくしかない。
そう思っている。


人の都合で獣を殺す案件に「虐待」の語を用いる人たちは、概ね、家畜動物の屠殺を残虐性のある方法で行うことを禁じている法律の存在を持ち出す。
しかし、少なくとも鶏を絞める行為は、長年の経験から洗練されたスピーディな作業になっていても「安楽」な死ではない。
体の大きな動物なるほど、やむなく残る屠殺の残虐性は大きなものになるだろう。

多くの人は実際の屠殺の現場を見たことはなく、また屠殺の部分だけを切り出した映像が、正しく屠殺の実態を伝えないことを、ザ・コーヴという映画から学んだばかりだ。
もしかしたらこの「ある精肉店のはなし」も賛否両論を呼ぶのかもしれない。


自分はといえば幸い、今のところ何かの決断を迫られる立場にはいない。
だからといって高みの見物を決め込むつもりもない。
ただ、できるだけ誠実な理解をしたい。
そう思っている。

2014年2月3日月曜日

科学雑誌「Newton」のコーヒーに関する記事は、どこまで科学的か

僕は高校時代「理数科」という特殊学級に所属していた。
が、三角関数や微積分は、たとえ問題が解けてもその意味するところがわかっているとはいえない、と感じていた。

今月のNewtonの第一特集が「三角関数」ということで、これは買うしかないと思い、購入し、今勉強中だ。

Newton (ニュートン) 2014年 03月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2014-01-25)
素材選び。
見事な図示化。
そして何より戦略的な論旨展開で、三角関数の概要がすっと頭に入ってくる。

僕は音楽を演奏するのも聴くのも大好きなので、世にあるすべての音が正弦波=サインカーブ、つまりsinθの変調から出来ていることを知識としては知っている。
だが、今回の特集を読んで、「振動」と「回転」、そして「回転」と「三角形」の不思議な関係に思い至り、なるほど自然界の振動が三角関数と関係が深いのも当然だ、と得心がいったのである。

永久保存版なのである。
しかし、申し上げておきたいが、この記事を読んで、高校の教科書もこのようにすればいい、と思ったとすればそれはちょっと早計で、単に図示すればわかりやすくなるというものではない。
広範な三角関数の分野を、すべてあの調子で記述することはそもそもできないし、おそらくそのようなことに取り組もうとして、現在の義務教育の教科書は実感値で30年前の5〜6倍のボリュームになってしまって、通学そのものが困難になるほどだ。
それなのに、ちっともわかりやすくなってはいないので、むしろNewtonの記事が示唆しているのは図示すればいいってもんじゃないよ、ということなのだろう。
思いつきを口にすることは厳に慎まねばならない。


ところでそのNewton3月号だが、わずか2ページだが珈琲に関する記事が出ている。
珈琲の成分分析に関する記事だ。

読み始めてすぐに躓いた。
焙煎(ばいせん)に「焙(あぶ)って煎(い)ること」と注釈がついている。
僕もこの仕事を始めてから先輩に教えていただいたことだが、このRoastに当てられた訳語は、字義的な誤訳なのである。
だから、いやしくも科学雑誌Newtonとしては、ここは習慣的な呼び名としてすっと流すべきところだった。

まず「焙る」は「火を当てる」の意で、高温にした空気で過熱するRoastに相応しくないし、もともとこの字は「ホウ」と読む字で「バイ」とは読めない。
また、「煎る」という言葉は、汁の乾くまで煮詰めるという意味で、字義的には「炒る」の字を使うべき所である。

この誤訳はどうやらカフェ・パウリスタあたりが発祥らしく、あぶる、は本来炙ると書くのが普通、いるは炒るが普通だったから、あえて捻ろうとしてこのような誤義をあててしまったのではないか。
そしてこの語を「大阪珈琲焙煎商業組合」が名前に採用して、これが政府に認証されたところで日本語として定着した、というのが定説だ。
もう定着しているだから、そのままそっと使ってくれればよかったのだ。
今さらあえて、先達の誤りを、まるでそれが正しい使い方のように注釈する必要はないだろう。


さらに読み進めていくと、コーヒー豆(生豆=きまめ)を、とある。
もうこんな基本的なことは言いたくないのだが、この場合この字は「なままめ」としか読めない。
日本語では、生の字は「き」と読んだ時は純度100%の意味で、「なま」と読んだ時は火を通していない、の意となる。
焙煎する前の豆の意味で言っているのだから、ここは「なままめ」と読むべきで、少なくとも珈琲業界の人間で、きまめなどと読んでいる人間はいない(はずだ)。


せっかく三角関数の記事に感動していたのに、まるで他の記事にも誤りがあるような気になってくるわけだが、しょせんこのような部分は「枕」に過ぎず、おおかたネットの情報でも拾い読みして書いたのであろう。

いよいよここからが本論。珈琲に含まれる化学物質が2型糖尿病の発症に抑制的に働く可能性があるという、そろそろ生活習慣病のデパートになりかけている我が身に嬉しい報告が続いた。
最近読んだ「老後の健康」という本には、アルツハイマーも脳内でのインスリンの効果不全が原因だという新しい研究について書かれていたから、これは無視できない。
この効果は、「クロロゲン酸」というコーヒー・ポリフェノールに由来するもので、肝臓で糖分をつくる作用を抑えるはたらきをもつ。

なるほど、さすが科学雑誌。
こういうふうに話を運ばなきゃね。
この話はしばらく前から業界では盛んに取り沙汰されていた話で、当時はもっぱら空腹感を抑える(空腹時の血糖値が上がらないようにするから)作用でダイエット効果があるという宣伝文句に使われていた。
そして、このクロロゲン酸、焙煎が進んでいくと減少していくので、浅煎り珈琲がダイエットに効く、という情報に変貌してひとり歩きしていったのだった・・

ふむ、まことに科学的に物事をみるのは難しいのである。
Newtonみたいな雑誌がアンアンとかと同じくらいもっと普通に買われるような世の中になれば不合理なこともずいぶん減るだろうに。


しかし当のNewtonのコーヒー記事、締めもピリッとしない。
飲み過ぎれば、カフェインの過剰摂取となり弊害があるとのまっとうな提言につづいて、だからデカフェタイプの珈琲がいいと言い、デカフェ加工の際、味に関わる他の成分も減ってしまうので、2004年に発見された天然デカフェのコーヒーノキに期待すると結んでいる。
あのね、カフェインにも味があるのよ。
それは微量にして微妙な苦味。
これが、焙煎によって生じる焦げによる苦味と立体的に組み付いて、あの珈琲の味を作っているのです。
味が問題なら天然でも人工でもデカフェじゃだめだってことでしょ。
それにそもそも、体にいいからって飲み過ぎたら毒なのはなんだって同じ。
足るを知る、ことが重要と思います。