2014年2月28日金曜日

リテラシーの意味

時事問題を扱うテレビを見なくなって久しい。
ニュース情報の摂取をインターネットに依存する生活をしていると、時々個人のブログがソースになった「オススメ」情報が流れ込んでくる。

先日は、「下から7割の人のための理科&算数教育」という、中学生の娘を持つ身として非常に興味深いタイトルの記事を読んだ。


筆者は私と同じ文系体質らしく、中学で今使われている教科書を読んだ上で、このような教育は自分たちのような文系人種には将来にわたって何の役にも立たないと断定している。
そして、このようなことを実際には教えるべきなのだと言っている。
長いが以下に引用する。

たとえば、算数の時間には、
・リボ払いを選んだ場合の利子の額
・大半の人が選んでしまう住宅ローンの“元利均等払い”の恐ろしさ
とかを(台形の面積の計算方法や、ルート2=?とかを暗記させる代わりに)教えてほしいし、

生物の時間には、
・命にかかわる病気になった時、治療方法をどう選べばよいのか
・妊娠のメカニズムと、不妊治療やその限界など
・副作用も指摘されてるワクチンを勧められたんだけど、摂取すべきかどうか、どう考えて決めればいいのか?
・太っちゃって、脂肪吸引に興味があるんだけど、大丈夫かな?
みたいなことを(カエルの解剖をする代わりに)教えてほしい。

化学の時間には、
・トイレ掃除のとき、何と何の洗剤を一緒に使うと危ないのか (もしくは、ガスファンヒーターの前にヘアスプレーのカンがあったら、どれほど危ないのか)
・ホテルで火事にあったら、煙は上下、どっちに流れるのか
・天ぷら油から火がでたら、水をかけるのとマヨネーズをかけるのはどっちがいいのか。なければケチャップでもいいのか?
などを(リトマス紙で遊ぶ時間の代わりに)教えてください。

物理の時間には、
・イオンのでる家電って、なんか意味あるの?
・放射能が怖いんだけど、ラジウム温泉でダイエットするのは大丈夫?
とかね。

それ以外でも、
暑いからといって赤ちゃんに扇風機をむけて一晩過ごしたらどーなるか、夏の自動車のなかに「ちょっとだけ」放置したらどーなるか、とかも、科学的な知識の問題な気がします。

筆者が挙げているほぼすべての項目が、現在の中学と一部高校レヴェルの理数教育を受けていなければ原理が理解できないものであることはすぐにわかるだろう。
つまり、筆者は原理はすっ飛ばして結果だけ教えてよ、と言っているように見える。

しかし、そう言いながら、
換言すれば、「全員に与えるべきは、技術者や研究者になるための専門教育ではなく、生活者として自己決定ができ、健全に安全に生きていけるようになるための科学リテラシー」だってことです。
とも言っている。
前者の事例は、当然リテラシーの事例ではない。元来「読み書き」の事を指すリテラシーという言葉は広義の意味での「基礎教育」を指している。だから前者の事例が後者の実現になっていないのは明らかである。

好意的に読んで、筆者の真意が後者の中等教育でのリテラシー教育特化論を「趣旨」とするものだったとして、筆者が中学の教科書を読んで、これは「技術者や研究者になるための専門教育」であると断じたとすると、まことに残念なことである。
実際の中学の理科や数学は、これ以上の基礎に分解できないジャスト・リテラシーなカリキュラムになっているからである。
だから逆に例示しようとすると筆者がやったように現実への応用例になってしまうということなのだ。

「換言すれば」筆者の記事は、このような実例を例示できるほどの知識をご自身が現在身につけておられることを示していて、日本の理科系基礎教育のまことに見事な成功事例を体現しておられるとも言える。

もちろん実際の知識は社会にでてからGoogle先生などに師事なされて体得されたのだと思う。それだって基礎がなければ出来ない話なのだ。

さらに「換言すれば」一度社会に出た身で見た中学の教科書が如何に実社会に役に立たないシロモノに見えても、それがなければやはり実社会で役に立つ知識を個人の中に醸成することはできないのである。

誤解してもらっては困るので、念のため申し添えておくが、僕は筆者がこの記事で主張している「趣旨」の部分に基本的に賛成している。
ただ、
技術そのものというより、技術や科学について、学んでおきたかったと思えることはたくさんあるんです。
ところが今の理科や数学で教えられている内容は、ほとんどの人には生涯を通じて無関係です。
という部分に強い違和感を覚えるまでだ。

僕は小学校の時、担任の先生が仰った「もし君たちがここで漢字を覚える方法を訓練しなかったら、将来とても面白い小説に出会った時に、感動できないだろう?それが勉強するということの意味なんだよ」と言う言葉を、僕は今でも大事に胸に抱いている。どんな時でも。
会社に入った時、当時流行っていたMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)の考え方は、予備校で習った被子植物の分類の方法と基本的に同じだとわかってすぐに理解できた。

社会生活は絶え間ない問題解決の連なりだ。
援用した理論は、どれほど無意識化に沈んでいても過去に学校で経験した「問題解決」と重なっているだろう。
学問領域のどの部分であっても、それが僕達の生涯に無関係だと、一体誰に言い切れるというのだろうか。

もちろん全員が全部のリテラシー教育をその身に修めているなどと申し上げるつもりはない。しかし、その「ばらつき」が個性として顕現して、我々のコミュニケーションや社会そのものをも豊かなものにしているのではないか、と僕は思っている。

ましてや社会がわれわれに要求する「知」は時代によって大きく変わってしまう。
先日読んだ小林秀雄と湯川博士の対談には、現代は「科学の時代」だと書いてあった。
50年も前の対談である。

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湯川博士の危惧は不幸にも的中し、我々は原子力発電所の事故で、自分たちの生活者としての科学的リテラシーがまったく不十分であることを露呈したばかりだ。

我々に必要なのは「学び続ける力」なんだと思う。
新しいものに出会った時に、それを面白いと思って噛み砕いていく力だ。
だからやはり、その基礎訓練になるリテラシー教育を決して疎かにはできない、という筆者の趣旨に全面的に賛成である。


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