2016年2月1日月曜日

YKKがカフェをオープンした件で、日本におけるブラジルコーヒーの歴史を振り返る

ファスナーで有名なYKKが、東京墨田区にカフェをオープンしたそうだ。
カフェ・ボンフィーノといって、国技館近くのYKKのビルに隣接している。
使われているのは、ブラジルにある自社農園の豆。
店内に設置した大型焙煎機で自家焙煎している。

YKKは、1972年にファスナー事業でブラジルに進出し、そこで得た利益を再投資し、85年、セラードに3300万坪の大規模なコーヒー農園を開いた。
栽培されているのはカトゥアイ種だそうだ。
生産性が高く、病気に強いが、ロブスタとの混合種であるため風味には劣るように思うが、自家焙煎の鮮度がそれをカバーするだろう。


ブラジルコーヒーと日本の関係は昔から深く、明治41年に日本からブラジルへの最初の移民793名を載せた船「笠戸丸」が神戸から出港した時に始まる。

その笠戸丸出港から100周年を記念して発行された記念硬貨。

当時ブラジルは、奴隷解放によって農園の働き手を失い、国家的な主力産業であるコーヒー農園での労働力を求めていた。
しかし、賃金労働者と奴隷の区別がつかないブラジル園主と外国人労働者の間でドラブルが続出していた。

同じ頃、日本では人口増加による食糧不足、日露戦争帰還兵の失業者問題が深刻化していた。
その解決策として、日本人のブラジル移民を計画したのが皇国殖民株式会社社長、水野龍だった。
最初の移民事業が、前述の「笠戸丸」である。

日本人移民もまた、奴隷の扱いしか知らない農園主のもと、多くの困難と忍耐を強いられた。
大きな成果も上げられず移民事業は大きな赤字を抱えてしまう。

ブラジルのサンパウロ州政庁は、そんな水野の移民事業に対し、年間1,000俵の珈琲豆の無償供与と東洋の一手宣伝販売権を与え、日本におけるブラジルコーヒーの普及事業を委託した。
これがカフェ・パウリスタの始まりで、当時は南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所と銘打っていた。 大隈重信もこの事業に協賛したという。

日本のカフェ文化は大きな拡がりを見せたが、戦争がすべてを壊してしまった。
戦後、GHQ経由で入ってきたコーヒー豆で、個人店が隆盛を見せたが、高度経済成長時代のライフスタイルに合わせてセルフ店が出てくる。
その先駆けがドトール・コーヒー。

ドトールとは、創業者の鳥羽博道がブラジルのコーヒー農園で働いていた時の下宿先の住所に由来する。
サンパウロのドトール・ピント・フェライス通り85番地。
 ドトール・チェーンは1400店舗以上あり、約1000店舗の日本スターバックスを上回る店舗数を誇る、いわば国民的カフェだが、その原点もまたブラジルだったということだ。

そして今度はグローバリズムの文脈で、再びブラジルへの進出がはじまった。
YKKの農園経営とカフェの今後を見守りたい。

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